芋久保村(新編武蔵風土記稿・武藏名勝図会) 芋窪村

芋久保村(『新編武蔵風土記稿』・『武藏名勝図会』『狭山之栞』)

『新編武蔵風土記稿』

○芋久保村(イモクボ)


 芋久保村は、郡の艮(うしとら)にあり、村内鹿島神社に掛たる建武三年の鐘銘によれば、元は奈良橋村内に属せし地なるべけれど、一村となりし年暦は詳にせず、今は奈良橋郷に係り、庄名は唱へを失へり、江戸日本橋より九里半の行程なり、

 名義は鹿島社の西方に古井戸の跡のこれり、この辺りはいかにも井戸を鑿つ(うがつ)ことなし、かたきよし、旧くは井の窪、或いは井能窪とも記せるもの見ゆ、これら村名の起こりしなどいえり、されど井をうかつことをなしがたきとき、井能窪と記せるなど云も、いかなるうえなるや覚束なし、

 東は蔵舗村(ぞうしきむら)に続き、南は砂川村に境ひ、西は中藤村により、北は山上の峰を限りとして、入間郡勝楽寺村なり、
 東西凡七町、南北二十五町、地形この辺は平なれど北方には山をうけたり、
 土性畑の方は野土にて粗薄なり、山根には真土の所もあり、民戸140烟、陸田多く水田は山間に六町六段余を開けり、御入國以来延宝二年六月細井九右衛門、元禄三年八月今井九右衛門・近山五左衛門等、命を奉じて税務のことを検定せり、正保の頃は酒井郷藏・酒井極之助知行せしよし、今は酒井清次郎知行所なり、

高札場 鹿島神社の大門前にあり
小名 西谷戸(西の方なり) 東谷戸(東方を云) 鹿島谷戸(村の中央なり) 石川(北方なり)
山川 山  北の方にあり、登一二町
石川 小名石川の山間より出る小流なり、此外に悪水堀村中を流る、又溜め池七ヶ所あり、いずれもわずかなる池なり、
神社  
 鹿島神社、社地、一万三千六百六十四坪、御朱印十三石、本社六尺上屋を設く、拝殿二間に五間半、幣殿二間に二間半、社伝を閲るに、慶雲四年の鎮座にて、武甕槌命を祭神とし、神体は龍王丸とて、則武甕槌命の太刀なりしといへど、神主も拝することを得ざるよし、社を造立ありしは、天智天皇第四姫宮なりしとも、又蘇我山田石河麻呂たりしとも記し、この外疑ふベきことをも記したれば、此社伝もいちいちには信すベからず、さはあれ後にのせたる文正・天文等の棟札あるをもて見れば、旧きよりの鎮座なりしことは知るべし、例祭は九月十五日なり、

神宝 武甕槌命鎧の袖(5寸許)、黄金石(5寸許)、錦几帳(東照宮御寄進なし給ひしよし、外に尾州亜相公この辺遊覧の折柄、当社に詣て自ら書して賜ひしという歌などありと云)
鐘(大鐘なり、銘に)

 奉納撞鐘一口
  鹿島大神宮神前
 建武三子年三月十三日
  武州多東郡上奈良橋村
   深井三郎源光義妻 敬白

 按するにここに載たる鐘銘に、多東郡上奈良橋村とあれば、当社草創の頃はこの辺り奈良橋村の内にて後別に一村となりしに、其おりからこの社も今の如くこの地に属せしものたるべし、又深井三郎光義といへる人は、外に所見なし、もし此社の棟札にしるせる、本且那源憲光といへるものも、深井の子孫なるにや、これらのことその徴とすべきものあらざれば今より知りがたし、又此鏡社頭にかけおきしを、いつの頃にかありけん 奪はれて今はなし、ただ鐘銘のみをかつたえり、


                       

末社 白山祠  子の神祠  山王祠(本社の左右にあり、何れも僅かなる祠なり、)
神主
 石井市之進 社地の西方に住めり、此人の先祖石川出羽守は、ここの地頭酒井某と共に、大阪御陣にも出たりなどいへど、させる記録はなし、

 社前の原上むはら生ひ茂れる中にあり、要石と称す、其さまをいはば、長さ二尺五寸許、横四尺許、径り一尺五寸、黒色にしていと潤沢あり、かかる田間にありては、耕作の妨たりとて、いつの頃か百姓等よりつどひ、穿ちすてんとせしに、地下に至るほど石の形ますます大にして、たやすく掘得ベきにも非れば、是より土人要石と称せる名を得たりと、村老の口碑にのこれり、按るにこの石適々鹿嶋社前にあれば、かかる話を附合せしにゃ、覚束なし、

寺院 

愛染院
 除地、六畝、字前坂にあり、石澤山蓮華寺と号す、真言宗新義、中藤村真福寺の末、開山開基の年暦を伝えず、本堂八間半に七間東向、本尊不動木の立像長一尺三寸なるを安せり、

医王寺
 除地、五畝十八歩、字石川にあり、白部山慶性院と号す、これも同寺の末、開山承秀慶長六年十一月二十八日寂せり、本堂五間に八間南向、本尊薬師木の立像長一尺六寸、行基の作を置り、鐘楼に鐘を掛たれども、正徳年中の新鋳なり、ことに考証とすべきことなければ、銘文はとらず、

観音堂
 字林と云所にあり、三間に三間半、観音は如意輪にて、長九寸許、行基の作なりと云、

墳墓 五輪塔
 字杉山と云所にあり、ここの地頭酒井極之助が先祖の墳墓なり、往古はこの所に居住せしよし、その地を今陣屋と字せり、



『武藏名勝図会』

芋窪村

山口領なり。往古は井野窪と唱えしなり。いつの頃よりか芋窪と五音の転じたるなり。村内の小名に石川という地あり。村の北方にて、狭山続きの山なり。広さ二町程なり。往古ここに石川入道というもの
居住せし跡なりと云。馬場の跡あり。年代不知。

鹿島大神宮

芋窪村にあり。神主石井氏。御朱印高十三石。社地一万三千六百六十四坪余。本社。幣殿。拝殿。神木槻囲り二丈二尺四寸、雨降桜古木は朽枯して、いまは若木なり。神体竜王丸と号す木立像。例祭九月十五日。末社白山、子ノ神、山王、各小社。

神宝錦の戸帳 神祖君御寄附。人麿絵像正保年中(一六四四~四八)尾張大納言卿御画讃。御狩の節に御寄附。
鐘社頭。鐘銘「奉撞鐘一口、鹿島大神宮神前、建武三子年(一三三六)三月十二日、武州多東郡上奈良橋村、井沢三郎源光義妻敬白」鐘銘に上奈良橋村とあれば、建武の頃は斯く号せしにや。数百年前のことなれば、さもありぬべし。この鐘は四、五十年以前に盗人のために失せしとなり。惜しむべきことなり。
古棟札二枚。

 社伝云当社者慶雲四年(七〇七)丁未 武蔵国江鬼神来留時、常陸峯仁天鬼神鎮給婦。今、鹿島之艮之方二町仁有二六本松。登云御陣場登言伝婦。天智天皇第四之姫宮、又蘇我山田石川麿登申須人建立也。今、祭礼仁獅子舞有。其獅子之頭三面奈留乎用油。是者鬼神之頭三面仁志◎蚤 身長一丈六尺有利志鬼神也。夫乎鎮給婦古例奈利登楚。

社伝云う、当社は慶雲四年(七〇七)丁未 武蔵国へ鬼神来る時、常陸峯にて鬼神を鎮めたまう。今、鹿島之艮之方二町に六本松がある。御陣場と云い伝う。天智天皇第四之姫宮、又蘇我山田石川麿と申す人の建立也。今、祭礼に獅子舞有。それ、獅子の頭三面なるを用ゆ。是は鬼神の頭三面にして、身長一丈六尺ありし鬼神なり。それを鎮め給う古例なりとぞ。

慶性院

芋窪村。白部山医王寺と号す。新義真言、中藤村真福寺末なり。元亀二年(一五七一)起立。本尊薬師如来木立像、一尺六寸、行基作。開山承秀法印慶長六年(一六〇一)十一月廿八日寂。

観音堂

芋窪村にあり。本尊如意輪観世音木立像、九寸許、行基作。